温かい手  








 額に、なにかが触れた。
 物が落ちてきたのかと思ったけれど真上には、無機質な天井が広がっているだけ。それに私は体を横にしている。ベッドの側面には
何も置かれていないし、物にぶつかったというより、知っている感触に出会ったような懐かしさがあった。おもむろに前へ伸ばした手を
つかまれたとき、声にならない声を上げていた。
「これのどこが、寝相は悪くないだ。落ちそうになるかと思えば、俺に向かって転がってくるし」
「アシュヴィン!?どうして、ここに……」
 自分の声で、はっきりと覚醒した。フィルムがからからと音を立てて巻き戻るように、自分の部屋を抜け出しアシュヴィンのベッドで眠っ
てしまったという事実に行き着いた。ここにいる経緯なんてどうでもよくて、一刻も早くこの状況から逃げ出したい。
「寝ぼけているのか?安心しろ、ここは俺の部屋だ」
「ごめんなさい」
 何に対して謝っているのか自分でもわからず、アシュヴィンから逃れることで頭がいっぱいだった。
「千尋が落ち着くまで、こうするしかない。騒がれると、後で面倒になるからな」
 大きい手で口をふさがれた。あまりにも突然のことに、抗うことをすっかり忘れてしまった。
「恐い夢でもみたのか?」
 アシュヴィンが心配そうに、上からのぞきこんでくる。言葉を発することができないので、首を横にふった。
「そうだろう。気持ち良さそうに、いびきをかいていたからな」
 皮肉交じりに呟いた。寝言は言うけど、いびきはかかない自信があった。反論の代わりに、アシュヴィンを軽く睨むと、
「おかげで俺は一睡もできなかった」
 と言われて、俯くしかなかった。私をからかって楽しんでいるに違いないけれど、眠っていないことは本当だろう。疲れを滲ませた低い
声が、妙に艶っぽいのだ。
「大きい声を出さないと約束するなら、この手をどけてもいい。それに俺も少し、横になりたい」
 うんうんと大きく頷くと、アシュヴィンの手は物足りないほど、あっさり解かれた。
「アシュヴィン、ゆっくり休んだらいいわ」
「そうさせてもらう前に――」
 ベッドを譲ろうと腰を上げたときだった。
「いくつか、聞きたいことがある」
 よく通る力強いアシュヴィンの声が、ひたと私をひきとめた。
 






 淡々とした口調は職務質問そのものだった。あきらかにそれと違うのは、アシュヴィンがベッドに体を投げ出し物憂げな表情を浮かべ
ているところだ。どうしていいのかわからず、とりあえずベッドに膝を揃えて座っていると「見下ろされると、気が休まらない」と言われ、
体を横たえることになる。私の反応を面白がっているとしか思えない、アシュヴィンの質問がはじまった。
「靫負をどのようにして、巻いてきたんだ」
 まるで私が脱走の常習犯であるような、言いようだ。厳しい口調と行動はまったく別ものなのか、アシュヴィンの温かい手は私の頬を
包んでいる。
「巻いてきただなんて、そんな器用なことできないわ」
「誰にもみつからず、ココにいるじゃないか」
「寒いからどうですかって、お茶を差し入れたの」
「何を混ぜた?」
 その場面をみていたかのように、決めつけている。悔しいけれど、アシュヴィンの考えは当たっていた。
「薬を少し入れたんだけど……」
 戦が続いて眠れなかったとき遠夜にもらった薬が、役立つなんて思いもしなかった。ジンジャーみたいに舌がぴりりとする薬を気づかれ
ないよう、小匙半分ほどを茶に混ぜたのだ。
「千尋が部屋を出るときは、それでいいだろう。俺についている靫負に、その手は使えないはずだ」
 体がぴくりとするほど、鋭い口調だった。頬なぞるアシュヴィンの手が私を見放すかのよう、ふいにとまった。怒っているんだ。親切を装い
靫負を眠らせ、真夜中になんの断りもなく押しかけたことを。
「アシュヴィン……?」
 崩れるように抱きつかれた。乱暴なくらい強く腕をまわされ、呼吸をするのがやっとだ。
「無事でよかった」
 泣きたくなるほど優しい声がした。本当に泣いているのではないかと思えるほど、切なく響く。アシュヴィンの腕の中にいるのに、ひどく
遠くに感じて、もどかしかった。
「靫負の交代の隙を、狙ったのだろう。しかしここまで、迷わずに来れたものだ」
「人がいたから、そっと後をつけたの」
「千尋は怖いもの知らずなのか、運がよかったのか」
 ぐいと体を離すと私の顔を覗き込み、困ったように笑っている。
「運がよかったのよ。私一人ではアシュヴィンの部屋にきっとたどり着けないし、引き返そうにも自分の部屋に戻れなかったわ」
「靫負には、怪しい者は容赦なく斬り捨てろといってある」
「えっ……」
「まえに俺が呼んだと偽って、戯れ女に扮した間者がいた。女だからと、見逃しはしない」
「そうだったんだ……」
 室温が、一気に五度下がったような気がした。あのとき前を行く靫負が帯のように太い剣を抜いていたら、体が真っ二つになっていた
に違いない。
「真夜中に自室を抜け出し、灯りも武器も持たずに宮中をうろつく姫など、聞いたことがない」
「苦しいんだけど」
 私はまた、アシュヴィンの胸に顔を埋めることになった。顔を上げて抗議しようにも、それさえ許されないほどきつく囲われていた。
「このくらい、我慢しろ。俺の心配にくらべたら、大したことないはずだ」
「でもこのままだと、アシュヴィンが眠れないんじゃないかと……」
「千尋を野放しにしておく方が、眠りの妨げになる」
「まるで私が猛獣みたいじゃない。ひどい言い方をするのね」
 アシュヴィンに打撃を与えようと、最大級の嫌みをぶつけた。
「悪いが今夜は眠る気はない。朝まで付き合ってくれ」
 私の言葉はまったく届いていないのか、自分の主張だけをしっかり伝えてくる。
「そんな……」
「がっかりした声を出すなよ。こんなことがないと、千尋は抱きしめることを許してくれないからな」
 打撃を受けたのは、私だった。アシュヴィンは、許す許さないという答えを欲しているのではない。数日後に式を挙げることが決まって
いるから、求められたら応えるつもりだった。この状況にあっても、私の意志を尊重しようとしているアシュヴィンの優しさに、どんな言葉
をかけたらいいのかわからずにいた。
「ちょっと、アシュヴィン!?重いんだけど……」
 回された腕の力が弱まると、容赦なく体を預けてきた。このまま下敷きになった堪らないと、這い出るようアシュヴィンの肩口に顔を
移動させたときだった。アシュヴィンから規則正しい寝息が聞こえてきた。
「寝たんだ」
 そっと顔をのぞくと、思わず笑みがこぼれる。綺麗なカーブを描いた長いまつげと薄く開いた口元からは、さっきまでの殊勝な科白が
結びつかない。「アシュヴィン」と耳元で呼びかけ、頬に触れても目覚めないことを確認してから、行動にうつした。腕を伝うと簡単に、
たどりつく。指と指を絡めるように手をつなぐと、アシュヴィンを感じながら目を閉じた。        











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