真夜中の抗議  








 靫負とはあきらかに違う足音を耳にして、アシュヴィンは小さく笑った。隣国の宮をあとにしてから、千尋と言葉を交さない
まま部屋に閉じこもっている。千尋に腹を立てているのではなく、千尋を伴った自分の軽率さが許せなかったのだ。千尋か
ら話し合いを求めてくることは予想していたけれど、松明を手にした靫負だけが宮中で活動することを許された刻限に、部屋
を訪ねてくるとは思わなかった。
 小さな足音は、アシュヴィンの部屋の前でひたと止まった。声を掛けてくるでもなく、引き返す気配もない。扉の前で思いつ
めたよう、じっとしているのだろう。扉に手をそえると、痛い沈黙が伝わってくる。
「千尋、そこにいるのだろう」
 扉を開くと、体をすべらせるよう千尋が部屋にはいってきた。
「どうしてあのとき、断ったの。軍勢五千がアシュヴィンについたら、常世は――」
「少し落ち着いて話をしよう」
 千尋の肩に手を置いてベッドに腰かけさせると、アシュヴィンは手近にあった椅子を引き寄せた。千尋自身が取引の道具と
して扱われたことに動揺していると、決めつけていた。そうではなく、自分を利用しなかったことを責められなど、どうして想像
できよう。
「私は落ち着いているわ。だからこうして、アシュヴィンと話をしようとしているんじゃない」
「困った姫だ」
「やっぱり困っているんじゃない。あのとき私を置いて、軍を得るべきだったのよ」
「戦としてみれば、五千という数は常世を治めるには悪くないだろう。それだけのことだ」
「それだけって……?」
 小首をかしげる姿に、ようやくいつもの千尋をみつけた。
「闘う目的を見いだせない者の集まりは、算を乱すだけだ。いままでの戦で千尋もわかっただろう、同じ志を持ってはじめて
軍は強くなる」
「協力してもらうために、訪ねたのでしょう」
「確かにそのはずだった。ヤツが千尋に興味を示さなければな」
「私と引き換えに、兵力を得ようとしていたんじゃなかったんだ……」
 力が抜けたのか、千尋の肩がすとんと落ちるのがわかった。この小さな体で国を背負おうとしている姿が痛ましく、アシュ
ヴィンの目に映る。
「俺があの取引に応じると思っていたのか?」
 アシュヴィンがベッドに腰を下ろすと、弾かれたように千尋は距離をとった。決して顔を上げようとはせず、シーツの端を弄
んでいる。
「だってあのとき、考える様な素振りをみせたから。てっきりそうなのかと……」
「何千何万という軍勢を差し出されても、千尋を手放す気はない」
「アシュヴィンが後悔していないってことがわかれば、それでいいの」
 じゃあこれでと、立ちあがろうとした千尋の腕をつかんだ。
「どこへ行く?」
「どこって、自分の部屋に戻るんだけど」
「千尋はそれでいいだろうが、靫負はどうなる。二ノ姫が部屋からいなくなったことが知れたら、任を外されるだけでは済まな
いだろう」
「そんな……」
「夜が明けたら、俺がなんとかするさ。今夜はここで休めばいい。薄い寝衣姿で、宮中をうろつかないでくれ」
 あっと小さい声を漏らしたあと、自分を抱くように体を固くした。薄明かりの中でもはっきりと千尋の顔に朱がさすのがわか
った。
「でも、アシュヴィン……」
 言いにくそうに、つぶやいた。
「心配するな。俺は野営に慣れているから、床でも椅子でもどこでも休めるのさ。千尋がこのベッドを使えばいい」
「それは、だめよ。ここはアシュヴィンの部屋なんだから、ベッドはアシュヴィンが使うべきよ。私は上掛けさえあれば、眠れ
るの」
「勝手にすればいい」
 その場に腰をおろすと壁にもたれかかるようして、固く目を閉じた。千尋に腹を立てたわけでも、見放したわけでもない。
一度言い出したらきかない千尋の頑固さに対抗するには、口論より実力行使に限るのだ。
「ごめんなさい。私の言い方が悪かったわ」
 どんなに謝ってもらったところで、千尋の提案に賛成する気はなかった。
「アシュヴィンもベッドで、休んだらいいじゃない。こんなに広いんだから、二人で寝ても落ちることはないわ」
 思わず声を漏らしそうになった。気遣いから出た言葉だとわかっているが、女が男を誘っているそれにしか聞こえない。
千尋の突飛な発想が愛くるしくあると同時に、誰にでも向けられる優しさが許せなくて、自分の腕に閉じ込めたい衝動に
駆られる。
 寝相は悪くないから迷惑をかけないとか、いびきはかかないけど寝言は言うみたい。でも小さいから気になるほどじゃ
ないと、アシュヴィンへの説得がこんこんと続いていた。
「そんなにそこで寝たいなら、好きにすればいいわ。私は部屋に戻って休ませてもらうから」
 床にすとんと足を下ろすと、ためらうことなく扉へむかってずんずんと足を進めている。
「まったく手がかかるな、千尋には」
 軽々と千尋を抱き上げると、ベッドへおさめた。
「私が眠ったらここを抜けだして、さっきの場所で休もうといしているんじゃないの?」
「悪いが千尋、俺は疲れているんだ。さきに休むぞ」
 アシュヴィンは体を横たえると、千尋の言葉を遮るようすぐさま背を向けた。
 長い一日だった。二人で馬で駆けて隣国の宮を訪ね、常世の統治のために手を結ぼうと持ちかけた。ヤツの耳には、その
ことは届いていなかったのかもしれない。千尋を舐めるようにみつめたあと、軍勢五千を引き合いに出した。「精鋭の軍だ、
決して悪くない話だ」と、いま思い返しても吐き気がする。その場で斬り捨てなかったのは、剣を掴んだアシュヴィン手に千尋
の手が重なったから。
「千尋、早く寝ろよ」
 そろりと振り返って、アシュヴィンは苦笑いした。薄い背を丸めるようにして、小さい寝息を響かせている。ぎゅっとシーツを
掴んでいる姿は幼子そのもので、その手を外してまで千尋の安眠を邪魔する気にはなれなかった。
「困った姫だ」
 この科白を口にするのは何度目だろうと思いながら、今宵は千尋の寝顔を楽しむことにしようと決めたのだった。
   




















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