薫風
自分はなにをしているのだろう。
逃げ込むように大樹に身を寄せ、息を殺していた。
「犬夜叉っ!!」
草を踏みしめる音で、かごめが近づいていることはわかっていた。もう一度名を呼ばれ、ようやく匂いを
感じた。かごめの表情まではっきりとみてとれる距離だ。嗅覚がまた衰えている。通り過ぎてゆくかごめの
後姿をみつめながら、どこまでも鈍っていく感覚をぼんやり考えていた。
草原に体を投げ出し、犬夜叉は流れる雲を目で追っていた。
かごめが自分の世界を捨て、こっちを選んだときに間違いないだろう。わずかな匂いを嗅ぎつけ、駆けつけたとき、
かごめが井戸から現われたのだった。それを境にかごめを探したり、性質の悪い妖怪を察知する機会がなかったといえばそれまで
だ。奈落を追っていたとき、頼りになった嗅覚は、いまは人間のそれと変わらないだろう。だからといって不自由はないが、言いよう
のない不安が付きまとうのだった。
「こんなところで、なにしてるの?」
上からかごめが、のぞきこんできた。
「薪割りはちゃんとしたぞ。言われたところに、積み上げたじゃねぇか」
体ごと横を向いた。かごめと面と向かって話すことが億劫だった。
「仕事を言いつけるために、来たんじゃないの」
「じゃあ、おれの昼寝の邪魔をするな」
「邪魔をしないようにするわ」
「好きにしろ」
それだけを言うのが精いっぱいだった。かごめから話しかける気配がないから、目を閉じてすべてを締め出してしまえばいい。それなのに、胸を押される
ような息苦しさを感じずにいられないのだ。
「みんなに巫女様って呼ばれても、あたしはそれらしい仕事を何もしていないのよね」
かごめは独り言のようにつぶやいた。
「祈祷が出来るわけじゃないし、病気を治せるわけでもない。薬草の区別がつくようになったから、症状にあった薬を出すことはできる
ようになったわよ。でもあたしがしていることといったら、村の人に声をかけて話を聞くくらい。それだけなのに布団にはいったら、
三つ数える間もなく眠っている」
そこでかごめが一呼吸おいた。
「夜に抜け出していることを知っているのよ」
犬夜叉の肩がぴくりと動いた。責めているというより、悲しさを含んだ声だった。かごめがぐっすりと寝入ったことを確かめて
から、夜風にあたりに行っていたつもりだった。
「あのっ……、その――」
言い出しかねているかごめに、犬夜叉が思わず振り返りそうになったときだった。
「夜の声が大きくて、眠れなかった眠れないってはっきり言ってよ!」
「それはない」
勢いよく犬夜叉が振り返った。そこには頭の先からつま先まで、夕日のように赤く染まったかごめがいると思っていた。
「えっ?」
「あの声は全く関係ねぇ。むしろ大きいくらいのほうが……」
言いさして、かごめの目が細まり嫌な光をたたえているのがはっきりとわかった。
「あたしは自分が寝ぼけて、何か言っている声がうるさかったんじゃないかって言ったんだけど」
かごめが犬夜叉の念珠をすばやく鷲掴んだ。
「いや、だからその……」
本当のことを話さないと、言霊が飛んでくるに違いない。犬夜叉は観念し、重い口をひらいた。
かごめは犬夜叉とならんでに横になると、足をばたばたさせていた。そのたびに、青臭い夏草のにおいが立ち上る。
「それって、なにか都合が悪いの?」
「以前はかごめの姿をみることがなくても、匂いでたどることができた」
「困っていないなら、それでいいじゃない」
匂いに支配されることがないから、どこか開放的な気持ちでいられることも、犬夜叉はわかっていた。完全に人になれないのに、
感覚だけは同等ということが、理解できないのだ。
「臭覚だけじゃなく、聴覚や刀の腕が人間とかわらなかったら、おれはかごめを守りきれるかどうか」
「心配しなくても、犬夜叉は今でも十分強いし、力もあまっているくらいじゃない。それに犬夜叉が人並みの能力に
なったからといって、あたしにとって犬夜叉にかわりないよ」
「かごめ……」
「もしかして、あたしに捨てられるとでも思っているの?」
いたずらぽい瞳で笑っている。
「うっ、うるせぇ。おれは、村人から巫女様って呼ばれてあたふたしているかごめを、助けてやろうとしていただけ
じゃねぇか」
「心配しなくても、浮気しないから」
犬夜叉の首に、腕を巻きつけてきた。白昼にみるかごめの白い二の腕が、妙になまめかしい。
「ちょっと、まて!」
「だってあたしと犬夜叉は、この村では夫婦ってことになっているんでしょ」
さらに腕に力を込められ、二人はからまるように転がった。
「あたしはこうして、犬夜叉のにおいがわかるの。乾いた洗濯物のにおいなのよね」
それがどういう匂いなのか思い出すことはできないけれど、かごめの明るい口調から、悪いものではなさそうだ。
草原をなでるように、風がはしる。夏草が、ほの甘く薫った。
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